top of page
検索

少し前まで

 少し前までやっていたtwitterでシルヴァンバーネットの『美術を書く』東京美術出版、2014年。の自身の気になる章のレジュメを作っていた。また、少し深掘りしたいところは文献を調べて同レジュメに記載した。


 『美術を書く』はあからさまに絵や美術・芸術作品を”読むもの”へと変えてしまうような捉え方、つまりパノフスキーのイコノロジー(それ以前の文献学的なイコノグラフィー)を主軸として、モチーフがなんであるか、どんな象徴であるのかを分析の対象として、それをもとにどのように書いていくのかといった本だった。

 最近はネット上で”考察”という言葉が溢れていて、伏線がどうだとか画面に出てきた〇〇は△△のオマージュであるとか。「だからなんだ」みたいな記事が多く、どのようなテーマがあり、それはどの場で展開されたもので、それを踏まえてどのように捉え次につながっていくか、みたいなものは少なかったりする(というほど読んでもいないけど)。

 『美術を書く』はメディアの違いはあれど、作品をその考察のように読み解いていくことに対しては似たところはあるのかもしれないが、美術・芸術は消費し得ない部分があるかもしれず(という僕の幻想かもしれないが)、そこを掘っていくための第一段階としては必要なんじゃないかと思ったりもする。

 絵を取捨して”読むもの”にしてしまうこと。”意味”に変換してしまうことは、ジョルジュ・ディディ・ユベルマン『イメージの前で』で批判されていることでもある。

最新記事

すべて表示

日記

今日、以前住んでいた場所の近くを通ったら、お気に入りの空き地が無くなり、そこに新築の家が建っていた。埼玉に来て四年で、雑草の茂るお気に入りだった空き地が四ヶ所なくなった。通りかかるたびに立ち止まって風が吹いて草達がざわめくのを愉しむことができなくなった。別のところでは太い梁を備えた百姓小屋が壊され整地されていた、そこにも家が建つようだ。市内でのシンボルツリーといってよいくらい存在感のある大木が二本

しらふ

そういえば使っている数少ない食器は全て骨董品だ。 根無草だから生活の中にせめて幻視みたいなものを求めてんのかと思って、ずいぶん感傷的だなと少し自分を戒めた。 書いたものに時間を持ち込もうとするからその摩擦で書くことに意図や目的が生じた。喋ることにも時間があるはずだが、書くことほど時間を感じられないのは元々流れていく性質を持つからだろう。出来事はたちきえてくばかり。たまに虚空に投げ出されたようになっ

日記

父親は私が物心ついた時から幻覚を見ていて、自殺未遂して意識が回復した時も「預言者の声に従っただけだんだ」と言っていた。その数年後に父は死んだ。今となってはそれは冗談だったのかも本気だったのかわからない。昔、父が私に教えてくれたアルコール依存症になった理由をを母に確認したところ違っていた。ちなみに親戚の誰に聞いてもみな違う答えだった。彼が私に話してくれたことで本当の事(事実?真実?)ってあったんだろ

bottom of page