top of page

下の画像は押下すると、拡大した画像と作品情報が表示されます。スマホの場合、この画像は左右が切れた状態で表示され、中央部の拡大画像となります。ご了承ください。

Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
Cepheid
stage
stage
stage
cepheid

 2012年、昼寝から目が覚めた時に、夢の中で見た光景の絵が描けるような気がして絵を描き始めました。それまで私は絵は学校の美術の時間以外には描いたことはありませんでした。

 2015年、コンペで入選した自分の作品を見に東京へ行った折、個展を開催中だった岡野岬石(旧 岡野浩二)先生と出会いました。先生にはキャンバスの張り方、バルール(平面上に空間を作るために色を正しく配置すること)、その当時私の好きだった印象派やポスト印象派達の技法(筆触分割、並置加法混色)や物の見方(印象派は物を物として見ずに光の反射として見なくてはいけないこと)を学び、油彩で風景画を描くようになりました。またその後、グループ展『イーゼル画会展』にお誘いいただき、2019年まで毎年参加させていただいておりました。

 そんな中、2017年頃の旅行中に立ち寄った羽田空港にて、アレクサンダー・ゲルマン氏のインスタレーション作品を体感し、感銘を受けて現代美術にも興味を持ったことで自分でもそういった作品を作るようになりました。

 2019年10月にパリのペロタンにて開催中だった村上隆のBAKA展で、作品の質の高さに驚き「どんな場所でどうやって作ってるのか知りたい」との思いから、帰国後すぐに有限会社KAIKAIKIKIに応募し、ちょうど地元にいる理由がなくなった出来事もあり、結果を待たず2020年1月に埼玉県へ転居。その後に不採用の通知を受け取り、他の場所で働きながら制作を続けています。 

略歴

1983年 生まれ

2012年 絵を描き始める

2015年 朝日新聞厚生文化事業団Nextart展 入選

2016年 グループ展『イーゼル画会展』藤屋画廊(以降2019年まで毎年参加)

2018年 個展『Descry』市民ギャラリー矢田 第6展示室

2019年 グループ展『みのかもannual2019』みのかも文化の森

2021年 個展『Totem』ギャラリーKAMON Irie

2022年 グループ展『みのかもannual2022』みのかも文化の森

      グループ展『イーゼル画会展』元麻布ギャラリー平塚

      グループ展『岡谷市アートフェスティバル『MIX』テクノプラザ岡谷

      グループ展『イナイイナイアートin笹離宮』蓼科笹類植物園

      個展『TOTEM』埼玉県立近代美術館 一般展示室3

2023年 GEISAI#22&Classic

     グループ展『みのかもannual2023』みのかも文化の森

     個展『TOTEM』TOMO都市美術館

     個展『にんげんさいこう』つきのみちくさ

 

北直人 gq.naoto@gmail.com

​作品について

​ 絵画のモチーフの中には、いくつかの種類があります。キリストの受難の一場面のような”物語” が描かれているもの。”寓意”、”比喩”もありますし、新しめのもので自己”表現”もあります。またポンペイの壁画などにも見られる窓枠と外の風景が一緒に描かれているような”装飾的”な絵画もあります。現代では”デザイン”といった方が感覚としては近いのかもしれません。イーゼル画で描かれた場合、それは”描写”したものでしょうし、”記号”もあります。以上は絵画というものの括りでの話ですが、およそ18世紀以降に絵画の中に隠されていた媒体が表面へ、こちら側へ出てくるようになり、絵画が分解されていきます。そしてデュシャンによるレディメイドの作品発表以後、インスタレーション作品、またはコンセプチュアルな作品がつくられるようになりました。

 私の作る作品『Cepheid』とは、周期によって明るさの変わる変光星という意味の英単語です。これは、もともとは私の解決できない実存上の問題から作られました。その問題とは、アルコール依存症だった父に関することです。私の父は私が物心ついたときから、禁断症状で幻覚を見るような重度のアルコール依存症でした。私は、私が社会の中で建設的に生きることは、父の生き方や存在を否定してしまうような気がしています。父の生き方を見限って建設的に生きるか、私も父のように生きるか。私はいまだに決めることができずにいます。 生きる上で何ものも産み出すことがなさそうな、”答えをださない”という問題への向き合い方が、作品なら答えになるような気がして、私は上記で挙げたどれでもないものを作りたいと思いました。それらのどれかに依ることは、素材や媒体のなかのどれかに特権を与えている気がしました。

 私が作品に求めたところは、作品を構成するそれぞれの素材・媒体がくっついたり離れたりしながら、曖昧な様相をみせるような部分です。淡い彩色の作品では、正面から眺めた時に麻布の色や織り目、地塗りのシルバーホワイトの色、彩色された部分。またはリンシードオイルの黄変の色、膠(にかわ)の質感などが混じり合って見えるように作っています。筆触も絵画空間を狙ったものと、地塗りをした麻布の表面を狙ったものとを使い分け、どちらかに寄ることがないようにしています。 最近は、素材の中の顔料が強く前へでてきた作品も出てくるようになりました。これらの作品は、素材がひしめき合う場として現れたものだと考えており、同時に私の中にプロセスへの注視も生んでいます。顔料が強く前に出てきている作品は、顔料をリンシードオイルと練り、絵具にするための道具である練り板を使わずに制作されたものです。使われている素材は同じであっても、 違う過程を経ることで現れる表面がこれほどまでに違うというのは、非常に興味深いことです。 そして、それらの複数の作品の間にはプロセスを実行する主体としての身体が隠れている気がしています。

 

 フランスで起こった芸術運動であるシュポール/シュルファス(支持体/表面)のメンバーの一人だったダニエル・ドゥズーズは「木枠とは〈レディメイド〉のものではなく、歴史的な次元におけるタブローの問題を最もよく提起したオブジェである」と述べていたそうです。(ポンピドゥー・コレクションによるシュポール/シュルファスの時代 ニース~パリ 絵画の革命 1966 ~1979、図録)私は、近年では、意味や概念が歴史的な次元におけるタブローの問題を最もよく 提起したオブジェになりつつあるのではないかと思っています。そこには身体も含まれるのか。こういった興味ももちながら勉強と制作を続けています。

検索
bottom of page